乳がんと闘うsmileyの買わない・捨てないお片づけ生活

令和元年、消費税も上がるというのに…あるものを使わなきゃもったいない‼ 乳がんと闘うスマイリーが、病気を機に、買わない・捨てないをポリシーに使いきる暮らしで体と心のデトックスをめざす、お片づけブログ☺ 

『清原和博 告白』読了📖

こんにちは☀


乳がんの手術が終わり、もうすぐ抗がん剤のスマイリーです☺



連休明けの手術からほぼ1ヶ月、小脇に何か抱えているような感覚はまだありますが、胸の傷もだいぶ落ち着いて来ました。


相変わらずの自宅静養ですが、最初の頃のように寝てばかりではなく、髪を切りに行ったり茶の間でテレビを見たり活動している時間も増えて来ました。普段なら滅多に見れないお昼のワイドショーなども見ています。



最近のニュースでは、山ちゃんと蒼井優ちゃんの結婚会見に本当にびっくり‼

ディズニーではありませんが、絵に描いたような‘’美女となんとやら…‘’で、正直、最初はとてもお似合いとは言えないと思いました。

ですが、会見の間、優ちゃんがとても良い表情だったのと、‘’魔性…‘’に関することが話題になると、山ちゃんが、そんな人ではない、とちゃんとかばってあげていて、優ちゃんが少し泣いていたのが印象的でした!こういう、大事な所で言うべきことを言ってくれるって、良いですよね。心強いです。

という訳で、

どうぞ末長くお幸せに♥♥♥



もちろん、明るいニュースばかりではなく、札幌での赤ちゃんの虐待死亡事件に暗澹としながら、警察に同行を求められた時、児相が対応すべきではあったんだろうけど人手が足りていないというのもまた、本当に事実なんだろうな、と思って見ていました。ですが、そんなことで子どもの命が失われることは、今後絶対にあってはならないことです。今すぐ人を増やしてどんな時でも対応できる児相になってもらいたいし、虐待死は必ず未然に防いでもらいたいと思います。


そして、薬物関係の報道もありました。
ピエール瀧氏の判決が出るとかで逮捕時の映像が流れたり、元KAT-TUNの田口君が保釈された時の土下座して頭を着けて謝る姿に、そういえば、と、私はしばらく前に買って開いていなかった一冊の本を手に取りました。



清原和博 告白』/文藝春秋


以前、どこかの雑誌が清原に定期的にインタビューをする、と聞いた時は、これから立ち直るためのきっかけになるんじゃないか、良い企画だと思ったのを覚えています。

それがスポーツ雑誌のNumberでした。
そのインタビューから生まれたのが、この一冊だったようです。


読む前は、タイトルからして、てっきり麻薬に関しての真相の‘’告白‘’だと思っていたし、いつ、どこで、どんな風に、いやそれより、なぜ覚醒剤なんかに手を染めたのか、それが語られているものと思っていたのですが、そこに関する部分はあまり書かれてはいませんでした。

と、いうか、全編読んでの感想は、まだまだ何も、答えは出ていないのだということでした。

なぜ、こうなってしまったのか。
なぜ、クスリに手を出してしまったのか。
どの時点での、どの選択がまちがっていたのか。
これから、どうすれば良いのか。
今後、どうしていくのか。

本人にも何一つわかっていないし、何も、答えが出ていないのだということだけがわかりました。
清原自身、まだまだ暗闇の中で、手探りでもがいているのでしょう。

もしかしたら、こういったものを書いたり出したりするのは、まだ早かったのかもしれません。

そういった意味では、宣伝文句や帯カバーのコピーから期待される内容は一切書かれておらず、何も明らかにはされていないのでした。Amazonなら☆☆☆★★という所で、どうしてもモヤモヤが残るのです。



本の帯には、

僕は、一体どこでまちがってしまったのだろう。

とあり、また、裏表紙の帯には、

覚醒剤取締法違反から2年。薬物依存、鬱病、自らの罪を執行猶予中に綴った一年間。これは、どうしようもない、人間らしさの記録である。

と書かれています。


たまたま書店で平積みになっていたのをすぐ買い求め、そのままになっていた一冊でした。書店で本を買うときは、よくよく吟味して買う私が、表紙もめくらず、目次もあとがきも見ずに買ってきた本でした。 



昭和42年生まれの私にとって、清原は、同世代人というばかりでなく、同い年ということもあり、後輩などに自分の年齢を説明するのに、「清原と同じ年」などと引き合いに出して気のおけない友達のような扱いをする時、多少の誇らしさがあったのも事実です。


それなのにあんなことをして、あんなことになって、‘’なんでやねん!‘’‘’どうしてくれんねん!‘’と思っていたスマイリーでした。



そんな自分はこの本を、読む権利がある、というか読むべきだ、というか、‘’別にファンでもなんでもないけど、私は関係者ですから、‘’というような気持ちだったのです。



『告白』といっても、清原自身が書いた訳ではなく、彼がこれまでの自分の足跡を振り返り思い出して話したことを雑誌記者がまとめたもので、そこには、子ども時代、おじいちゃんの膝の上でジャイアンツ戦を見ていた頃の記憶から、引退し、逮捕され、執行猶予中に記者のインタビューを受けている当時に至るまでの気持ちが綴られていました。


子どもの頃から体にも恵まれ、とにかく球を遠くへ飛ばしたい、ホームランを打ちたい、そしてみんなをあっ言わせたいと、そのためならどんな努力でもする子だったとも。


これが終生変わらぬ清原の姿で、今、そのホームランを打つ場がないことが、活躍したり誰かの役にたったり、何でも良いですが、彼が自分でそういう晴れ舞台をなくしてしまったことが悔やまれるのです。

最初は、膝のケガにより、思うようなバッティングどころか、動く・走るにも支障が出て、事実上、グラウンドでは闘えなくなったこと。

ここに、清原を主人公にした、『カッセ清原』という漫画があります。清原の子ども時代からどうやってスーパーヒーローになったのか、西武ライオンズで活躍する所までを描いています。その中に、リトル時代の監督さんから、お前は膝が固い、魚を食べんからや‼と叱られ、夜中に一人で泣きながら煮干しを食べるエピソードがあります。
興味深いのは、そんな頃から指導者の方が清原の弱点を見抜いていたことです。ここが、清原が野球を始め、巨人への憧れを募らせたいわば、‘’原点‘’ですね。


自分も、祖父がカンカンの巨人ファンだったので、やっぱり家でも毎晩プロ野球を見ていましたし、マンガ『巨人の星』も大好きで、再放送も繰り返し見たりして、いっぱしの野球好き&巨人ファンに育ちました。


まだ打撃の面白さしかわからなかった頃は、巨人が攻撃している間だけテレビを見て応援し、守りになると数学の宿題をやったりしていました。
学校で持たされるワークブックのうち、シP5~7などと黒板に書かれるとそれは宿題で、ヤP8は8ページをやっておけ、(宿題じゃないけど、やってみたらいいよ、の意)でしたが、野球のおかげでヤットケのページも苦でなくやっつけていました。


当時は王貞治という、後に世界のホームラン王になる人がまだ現役で巨人の4番として打つのをリアルタイムで見ることのできた幸運な時代で、球場のアナウンスが「4番、ファースト、王」と入った時の、あの興奮と期待感は忘れられません。
私の記憶では、毎打席とまでは言いませんが、少なくとも、毎試合、打たない日はなかったように思います。


私自身、この王さんのファンから始まって、松井秀喜というやはりすごいスラッガーのファンになりその後も数々のホームランを見てきました。


松井はゴジラというニックネームを持っており、また北陸は石川県の生まれであったことから、北陸銀行ではゴジラのキャラクターをデザインした『ゴジラ松井通帳』を出していたことがあります。

私はこれを自分で勝手にゴジラ松井貯金と名づけ、松井がホームランを打つ度に1万円ずつ貯金していたことがありました。通帳の金額欄の余白には、ホームランを打った日付と対戦チームの名前を記録していました。

ところがその夏、松井が‘’目覚め‘’、ホームランのスピードに貯金が追いつかなくなって、あっという間に断念せざるを得なくなったのでした。

巨人に入って初年度11本、次年度20本、3年目22本だったのが、この年はいきなり38本と大きくホームラン数を伸ばした松井はこれ以降、一度も30ホーマーを下回ったことはなく、ニューヨーク・ヤンキース移籍直前の2002年には実に50本のホームランを記録し、その年の本塁打王に輝いています。


松井のメジャーリーグ移籍と共に野球を見ることも減ってしまいましたが、松井はヤンキース時代にアメリカNo.1となる、ナショナルシリーズの最終戦で優勝を決めるホームランを打ち、その時のMVPを獲っています。

しかし、翌年ヤンキースは松井と契約しませんでした。こんなすごい活躍をした選手を、信じられない仕打ちだと思いましたが、松井の次のチームアストロズでの試合を、私はたまたまテレビで見ていると、チェンジになりレフトのポジションからホームに帰る松井の姿に、何か違和感を覚えました。
走って戻ってくる松井の、左右の肩が大きく揺れているのです。
私はこれを見た瞬間、ああ、松井ももう駄目かもしれないな、と思いました。松井も膝のケガから手術をして復帰していましたが、走るときに体に左右バランスが出るほど、元に戻すことは難しかったのでしょう。

その後間もなく、松井は引退しました。なかなか日本に帰って来る気配がありませんが、いつかは巨人の監督をするのではないか、その時は私もまた、テレビで応援しようと思います。



私が『巨人の星』と王さんのおかげで巨人ファンになり、また松井秀喜というバッターに魅せられて欠かさず野球を見ていた時期というのは、清原が王さんに憧れ、甲子園で活躍し、あのドラフト事件を経てプロに入り、西武で無冠の帝王と呼ばれ、最後に巨人に来て4番を打ちながら松井にその座を奪われていった時期と重なっています。


同い年であるが故でもありますが、彼の野球人生の折々を、私も実際に見てきているのです。


特に、甲子園で桑田とPL学園のK-Kコンビとして華々しい活躍をした時の試合は全部見ていますし、後に清原が巨人の4番に座った時、3番の松井より料理しやすいと侮られ、相手チームが目の前で松井を敬遠するのが悔しさにまんまとその術中にはまり、大振りしては結果を残せずに苦しんでいた、移籍当時の様子もよく覚えています。


松井が打ち始めた頃、巨人の4番を巡って、清原と松井は常に意識しあっていたと思います。松井は4番に定着するまで、2度ほど開幕から4番に座っては、あっという間に降ろされたことがありました。そんなときは必ず清原が4番に戻り、しかし前に書いたように移籍当初は前の打席の松井を敬遠され自分と勝負に来られる屈辱に怒り苦しんでいたのです。


私から見ると、これはセ・リーグパ・リーグの戦い方の違いにも原因があり、力と力のぶつかり合いを好む素直でストレートなパ・リーグ野球の直球勝負になれた清原が、駆け引きも戦略というセ・リーグ野球の変化球についていけなかったことが大きいのではないかと思っていましたが、清原自身、それも認めながらも、松井を相当意識していたと告白しています。


途中安定感が出てきたのは、本人は松井との関係を見つめ直し、意識を変えたから、と言っていますが、私は当時、彼の遅い結婚を報道で知り、その後の成績の上昇や肉体改造に取り組んでいる様子を見て、あっ、きっと良い奥さんなんだろうなと思ったことを覚えています。密かに祝福もしていました。


それなのに、自分を捨てたと、子どもに会わせてくれないと、そしてそのことで自分は更なる闇に堕ちたのだという清原には、「子どもを守らなければならないので、ご理解下さい、」という奥さんの言葉を今一度考えて欲しいのです。この方は、強く賢い人だと思います。



何のことはない、私は相当な清原ウオッチャーでもあったようです。

それは、高校時代にさかのぼります。



自分の高校は決して強豪校ではありませんでしたが、高校2年の時には、地元で甲子園出場経験のある私立高校に地区大会で勝ったことで、甲子園が見えてきていました。
その私立高校との対戦は、当然勝つと思ってかほとんど応援もなかった相手校に対し、こちらは最後の試合と覚悟しての全校応援でした。
その試合に勝った時は、もう甲子園を手にしたかのような喜びようでしたがあえなく次の試合で敗れ、甲子園は夢と消えたのでした。

本当に、あと一つ勝てば、甲子園に行けるところだったのです。その一つが大きく遠いのもまた、甲子園なのですが。


野球部の友達は、自身、2年生ながらショートでレギュラー、運動神経も野球センスも抜群な選手でしたが、そんな彼が「甲子園に行って、清原君に会うんだ!」と言って朝も、昼も、放課後も練習していました。

当時、野球に少しでも興味のある者なら、このPLのK-Kに、いや、4番の清原に憧れない人はいなかったのではないでしょうか。

今となっては桑田がピッチャーとしても、そして野球人としても、どんなに優れていたかわかりますが、その頃は、こう言ってはなんですが、やはり背が高くカッコいい、今でいうイケメン、そして明るい性格の清原の方が断然人気があったのです。絶好調な時期でした。


ですが本人は『告白』の中で、このPL時代を後に覚醒剤で経験した檻房に並び例え、どちらも二度と戻りたくない場所、とさえ言っているのです。

寮生活の規則の厳しさや先輩後輩の序列の厳しさ、そして1年生なのにレギュラーに選ばれ、あまつさえ4番を打つことでの周囲からの風当たりの強さなど、決して楽しく野球ができた、良い時代とは捉えていなかったようです。

そんな中、話さなくても、桑田とはわかりあえるものがあった、と清原は繰り返し『告白』に書いています。

そんな重圧の中とはいえ、清原は1年生から4番に座り、事実上幾多のホームランでチームを勝利に導き、2年の時こそ春夏準優勝に終わりましたが、1年生と3年生の夏の甲子園で二度の優勝を果たしています。たった3年間しかない高校生活で、これは本当にすごいことで、甲子園にPLありということを華麗な人文字応援と共に刻みつけました。後進にも人材が集まり、プロで長く活躍した立浪和義選手や巨人のピッチャーだった橋本選手などがその時のチームメイトにいました。
今現在、あのPL学園に野球部がなくなるとは、誰も考えもしなかったことでしょう。



そしてその秋のドラフトで、あの事件が起こったのでした。


なぜ自分が、ここまで当時の状況を知っていたり覚えているのか不思議ですが、やはり相当な興味を持ってドラフトやその後繰り返される再現フィルムなどをよく見ていたのでしょう。


結果的に、清原が望んでいた、いや確信していた巨人の1位指名は桑田に行き、清原自身は西武ライオンズの1位指名を受けました。


『告白』には、 桑田と巨人の間に何らかの密約があったに違いないと、今でもそう思っているらしい清原の心情が綴られています。

この点においても、清原はまだ、闇の中にいるのです。

高校卒業時のドラフトから、既に30年以上経っているというのに、です。
西武ライオンズでのルーキーイヤーに、あんなに活躍し、またたくさんの先輩ピッチャーに可愛がられ育ててもらったというのに、です。


ドラフトについて言えば、完璧なシステムではないし、高校生側には選択の自由もありませんが、まずはくじ引きを前提とした世界です。

そして、桑田真澄という、あれほどのピッチャーを、巨人が、いや他球団でも欲しがらない訳がないし、そして清原を巨人が欲しかったというのもそれはそれで本当だったと思うのです。

しかし、清原は桑田が早稲田に行くと言ったのにプロに転向したことが信じられず、裏切りだと感じ、その後の展開すべてが仕組まれたものであると思ってしまったのでしょう。

桑田が早稲田への進学をキャンセルしてプロに行くことになった時、チームの監督は早稲田へお詫びに行ったとか。

このことからわかるのは、進学を決めていた桑田にさえ、巨人からの指名には、道を変えさせる程の力と魅力があったのではないかということです。

巨人に行きたかった清原の気持ちもわかるし、巨人に1位指名されたらやはり行きたいと思っただろう桑田の気持ちもわかるような気がするのです。

それでも、二人が後に巨人で再びチームメイトとなった時、やはり清原は、桑田の登板の時には何とか打とう、打って桑田を助けようとしていたのが見てとれました。PL時代、1年生から二人だけがレギュラー入りし、二人でチームを背負っていた時のように。


清原が、どれだけ巨人に憧れていたか、それがわかるような写真を見たことがあります。

写真の清原は本当に嬉しそうな顔で写っています。そして清原が着ているのは、巨人のユニフォームでした。

後に巨人に移籍した時の、よくある新しいユニフォームを披露した公式の写真ではありません。巨人に入った後輩のユニフォームを借りて、着させてもらっているのです。そしてそれを、写真に撮らせているのです。

この様子を見た時の私は、同い年ということで勝手に友達認定していたこともありましたが、初めて清原に対して、しっかりしろ!というような、どついてやりたいような気持ちになったのを覚えています。

その頃既に、西武ライオンズの若き主砲として、あの秋山と共に、大活躍といっていい働きをしていたのです。

まだ、そんなに、巨人が忘れられないのか。
ひとのユニフォームを着て、そんなに、嬉しいのか。

そんな気持ちでした。


世界の北野武氏が、清原の躓きの原因を、やっぱりあのドラフトじゃないの、とズバリ言ったようですが、ドラフトが悪かったというよりは、巨人に行けなかったことが原因というよりは、誰もが憧れる、憧れたからといって一握りの恵まれた才能を持つものしかなれないプロ野球選手になることができて、パ・リーグの常勝チームの主軸を務める身でありながら、現実に手にしたその素晴らしさよりも、自分が願っていた巨人への入団という夢に価値を置きすぎたことではなかったかと思うのです。


清原は言っています。あの時が、今思えば自分の一番良い時だったと。それは、‘’涙のドラフト‘’といわれたあの事件の後で1位指名で入った西武ライオンズで、たくさんの名投手と本気の戦いをしていた頃のことです。


もっと早く、そのことに、気づいていれば…。





『告白』の最後の方には、清原の願いが記されていました。

子どもに、野球を続けてほしい。そして、自分もいつかまた、ユニフォームを着たい。


引退した野球選手が‘’ユニフォームを着る‘’、というのは、監督やコーチになることを意味します。

それならどうして、刺青なんか入れたのか、どうして覚醒剤なんかに手を出したのか。

子どもが野球を続けられなくなったのは、一体誰のせいなのか。

家族と会えなくなり、寂しい寂しいと言うけれど、あんなに素敵な奥さんが、子どもを隠さなければならなかったのはなぜなのか。


わかってない、全然わかってないのです。それが本当に悔しく情けなく、読後感がモヤモヤする理由なのでした。


一つわかったことは、色々疑惑のあった清原ですが、いよいよ駄目だとなった頃には、皆、付き合いをやめており、清原の周りには人がいなかったということです。

最後まで‘’小姑のように‘’しつこく忠告していた桑田をも退け、清原はそうやって自分から断ちきった関係もあれば、家に帰ったら、もぬけの殻だった、というように、置いていかれた関係もありますが、とにかく、このさみしがり屋の男の側には、いよいよの時、誰もいなかったのです。 


自分でさえ、清原と同じ年と言わずに、サッカーのキング・カズと同じ年だよと、言うようになっているのです。


私が、もう一度、清原と同じ年だよと、誇らしく言うことができる日は、来るのでしょうか。

彼自身が、これでいい、と思える日は、来るのでしょうか。



ここまで、何も解決していない、極めてモヤモヤした読後感だと、そして清原どうしたんだと、自分のことを棚に上げてたくさんたくさん言わせてもらいました。

それでも最後に思うのは、私はもしかしたら清原の大ファンだったのではないかということ、これからもずっと見ていくだろうこと、そしてまかり間違って会うことがあれば、お腹に一発、パンチをしてやりたいということなのです。私の青春を返せ!と。