乳がんと闘うsmileyの買わない・捨てないお片づけ生活

令和元年、消費税も上がるというのに…あるものを使わなきゃもったいない‼ 乳がんと闘うスマイリーが、病気を機に、買わない・捨てないをポリシーに使いきる暮らしで体と心のデトックスをめざす、お片づけブログ☺ 

生き仏さん☺

こんにちは☀


乳がんの手術を終えて、ただいま抗がん剤中のスマイリーです☺



吐き気や嘔吐の副作用が治まって、ほっとしたのも束の間、今度は骨髄抑制からの発熱が続き、とうとうボルタレン座薬もあと2つとなってしまいました。


一昨夜は、夕方には一度熱が下がったので、お風呂にも入りご飯を食べて寝たのですが、夜中にやはり熱が上がっている感じがして計ると、9度5分にもなっていて、一度起きて座薬を入れたり、水を飲んだり、冷えピタを貼ったりしてみました。


ですが、3時ぐらいまで寝付けず、なんだか座薬もあまり効かないなと思っていた所、急激に汗が出始め、枕に巻いていたバスタオルも、自分の着ていたタオルワンピースのパジャマもすっかり濡れてしまい、一度バスタオルも撤去し、すべて着替えて、アクエリアスを仕込んで来ました。



そうこうするうち、朝5時には熱も下がったのですが、消耗してしまったのか、横になっていても体が重い感じでした。それなのに眠れそうな感じはなく、そして、ものすごく、おなかが空いていました。


エネルギーを使い果たしてしまったのでしょうか、汗が出ている時も、同時に脈が早く、簡単に30秒でカウントしてみるとスコアは49でした。横になっていて(いわゆる安静時)この100近い数字は、やっぱりちょっと速いのではないかとまた色々検索した所、熱が上がるとそれに伴って脈も上がるとのこと。38度で94とあったので、まあそんなものかなと思い直しました。


こうして、ボルタレン座薬で汗をかいて一時的に下がりはしましたが、薬が切れて発熱する時の体温が、どんどん高くなっている気がします。それは、根本の感染症なりの原因が、全く治っていないということですし、やはり一度通院した方が良いのかなと考えました。


朝になったら今日こそは通院しよう、そう思っていたのに、『外来化学療法センター』の電話が通じる時間になってからかけてみると、今の状態で病院に来てはいけないとのこと。


よく、病院に行って、かえって風邪をもらってしまうということがありますが、色々な患者さんが集まる大学病院は、思えば様々な感染リスクの高い場所です。そんな所に、今現在免疫が下がっていて、発熱している状態で出向くというのは、自殺行為なのかもしれません。


ですが、自宅での療養ということで、今の自分の状態や、対処の仕方がこれで良いのか、大丈夫なのかという不安が常にあります。


そこが入院して点滴し、大丈夫だったら帰ってくる、という前回の抗がん剤の時と違う所なのです。病棟で、側に何でも聞ける看護師さんがいるという安心感。万が一、体調が悪化しても絶対なんとかしてくれるという信頼。


自宅療養では、自分で自分の状態を把握し、体調が悪ければ自己申告したり服薬したり、自分で対処して行かなければなりません。


そのための『外来化学療法センター』の電話相談システムだと思うので、体調に応じて、こまめに相談しながら今後も進めたいと思います。 



そんな訳で通院はあきらめましたが、このペースだとボルタレンが足りないかもという話をすると、追加の処方を出してくれるとのこと。ですが、その処方せんを近所の薬局に流してもらってそこで薬を受けとる、というのはやはりダメみたいで、誰かが大学病院まで取りに行かなければなりません。


こんな時は、弟頼み。
今回もお願いすることにしました。


仕事柄、比較的時間の自由は利く弟ですが、朝、起きてみると徹夜で仕事を仕上げた後だったりして、今回も、朝食を食べたら一度眠る所だったのを、そのまま診察券を持って出かけてもらうことになりました。


いつもいつも、本当に感謝です。


しかし、こうやって家族や助けてくれる人のない中で治療している人はどうするのでしょうか。自分だって、独りでがんの治療に立ち向かっていたら、もっともっと困難な状況だったろうと思います。


母にも本当に助けてもらっています。


毎日のように近所の八百屋さんに電話しては野菜やくだものを届けてもらい、何かと食べさせてくれています。
たまにはお寿司屋さんから鰻が届きます。
足があまり良くないのに駅前のお肉屋さんまで歩いたという日は、この夏一番の暑い日で、店に着いた途端、商品の並ぶ冷蔵庫からネクターを出してもらって飲んだそうです。「熱中症になるかと思った」などと後で言うのを聞いて、無理しないでよ、と驚いても怒っても、みんな私のためなのです。



また、母は最近、一つの大きな決断をしました。


実はうちでは、8月14日に祖父の七回忌を予定しており、お寺にお願いして、お参りの後に皆でお食事をするのに会場も借りてありました。


ですが、その日が私の4回目の抗がん剤の投与日とぶつかっていることが判明し、また、今の副作用の状況を見てでしょう、おじいちゃんの法事は今年はやめるからとの話が先日母からありました。


翌年逝った父の七回忌と一緒に、来年にすることにしたというのです。



あの夏、父がすい臓がんで危篤状態の中、入院こそしてはいたものの、病態としては、まだまだ元気だと思われた祖父の急逝でした。


誰もが父が死の淵に立っていることは認識していましたが、また誰も、祖父がそんなに早く逝こうとは、思ってもいませんでした。



私は今でも、祖父が自分の残りの命を、父に置いていったのだと思っています。



14日の早朝に祖父が亡くなり、お盆のさなかで日繰りがつかず、その日の夜に無理やりお通夜をさせてもらい、翌8月15日にお葬式も済ませて焼き場へ移動し、午後にかかろうかという頃、皆で食事をとりながら最期のお見送りを待っている最中に、父の病院から電話が入りました。

とにかく今すぐ来てほしいと言うのです。


今まさに骨あげというタイミングで、喪主の母が外すこともできず、急遽、家族の中で私が行くことになりました。そして、親戚も皆集まるなか、昔看護師をしていた父の妹が、私に付き添ってくれることになりました。


病院で父の顔を見たのも束の間、意識があるのか確かめる間もなく、すぐに別室で医師からの状況説明がありました。


血圧が60、いつ、何があってもおかしくない状態ですので、これは賭けになりますが、思いきった手を打ちますとのお話でしたが、私には、よく飲み込めてはいませんでした。


そもそも、祖父が亡くなった時から、自分がどこを歩いているのかさえ、わかっていないのです。


昨日、急に祖父が亡くなりまして、今も、焼き場から来たんですと私は告げて、とにかくお願いしますとしか言えなかったと思います。


その話の直後、主治医は父のベッドの回りにスタッフを集めました。バレーや野球の円陣みたいな雰囲気の中で先生は口早に、「平岡さんのお父さんが昨日亡くなられたそうです。ご家族のことを考えると、今、平岡さんにまで逝かれる訳にはいかない、」と言ったと思うと「ステロイドの投与を開始します!」と宣言し、そこから急に、慌ただしくものごとが動き始めたのを覚えています。

たぶん、家族の同意が必要な処置だったのでしょう。


対して、ついてきてくれた叔母は、私が今通う病院ではありませんが、大都市の大学病院で最後は看護師長まで務めた人で、この血圧60という数字が意味することがよくわかっていたようです。


叔母から連絡を受けた他の父の兄弟姉妹は、お葬式が二つ重なりませんようにとお祈りしてくれたそうです。それでなくても、父の一番上のお兄さんが7月の末に亡くなって、親戚一同顔を会わせた矢先の祖父のお葬式でした。



そして、一時はそんな状態だった父が、お医者様の起死回生の戦略が功を奏してか、この日を境に回復し、転院を経て一時帰省などをする中で、4か月後には退院し、自宅に戻ることができるまでになったのは、やはり奇跡としか言いようがありません。


そこからの半年は、家族四人で最期の時間を過ごすことができました。



これはきっと、おじいちゃんが残りの寿命のローソクを、消えそうなお父さんのローソクに、つけ足してってくれたんだよね。


日本昔ばなしか何かで、目の前にあるローソクの長さは各々の命の長さだと聞いた主人公が、自分のローソクが今にも燃え尽きそうなほど短いのを見て、とっさに隣のローソクを折って自分のローソクにつけたら、それは母親のローソクだったというようなお話を、子どもの頃に見たことがあるのです。



そして、おじいちゃんが亡くなる前の日は、家族が誰も見舞いに顔を出せなかった日でした。

出せなかった…いいえ、出さなかったのです。

父のお兄さんが亡くなり、がんばってお通夜やお葬式に出た後、父の病状は急速に悪化し、緊急入院した後は、母と私と弟はいられる限り父の病室にいて、面会時間を過ぎても帰らず、消灯になったら仕方なく病院を出る、という毎日でした。


毎日父の病院に行く前には祖父の病院に寄って顔を見て、また帰りに寄って行く、という流れだったのに、その日に限って、本当にその日に限って、なぜか祖父の所には寄らずに直接父の見舞いに行き、帰りは帰りで、あまりに遅くなったため病院の玄関も開いておらず、明日の朝また来よう、と言ってまっすぐ家に帰ってきてしまったのでした。


入ろうと思えば、家族は裏玄関から入ることができたのに。

日中ほとんどの時間を父の病室にいるのだから、祖父の側に行く時間なんて、いくらでもなかったのに。

ちょっと、本当にちょっと寄れば済むことだったのに。



レビー小体という型の認知症だった祖父は、何もかもがわからなくなるというよりは、むしろ幻覚が見えたり、神経が過敏になったりし、入院する前には、大画面テレビに写る人の顔を見るとその人がうちに来たと思うのか、貴様帰れと言って怒ることが多かったのですが、一度だけ、先々代の昭和天皇の映像に向かって、「やあ、陛下さん」と嬉しそうに敬礼するのを見たことがあります。

体格の良かった祖父は地元の健康優良児で、戦時中は近衛兵に選ばれ皇居を守っていたのです。



そんな状態での入院だったので、はっきりしている日と錯誤している日の違いも大きく、毎日来ていた家族が顔を見せなかった日に、祖父にはそのことがわかり、見捨てられたと思って生きる力をなくしてしまったのでしょうか。


私たちが会わずに帰ったその明け方、祖父は独りで逝ってしまったのです。

後で亡くなった時間を聞くと、自分たちが家に着いて、6時間も経たないうちのできごとでした。



奇しくも、その前の日、最後に会ったのは私でした。

食事が口からなかなか摂れず、点滴メインの祖父でしたが、アイスクリームなどは食べさせて上げれば口にすることができました。

その日も、アイスクリームをあげた後、父の病院に行こうと立ち上がる私に、「俺アもう、ダメだじゃあ~」と嘆息するように、大きな声で祖父が言ったのです。

「何言ってるの、おじいちゃん。ご飯食べれるようになったらおうちに帰れるんだよ、」と私は言って、そのまま祖父を置いてきてしまいました。


本当に、かわいそうなことをしました。

なぜ、そこでもうちょっと、祖父の気持ちや体調のことを、聞いてあげなかったのか。

何か不安だったのかもしれません。何か感じて、訴えたかったのかもしれません。

だいたい、つらいとかダメだとかそういうことは、一切言ったことのない祖父でした。



祖父と私は生まれ日が干支も月日も一緒で、こんなことも珍しいと小さい頃からそれは可愛がってもらいました。

干支の概念がわかってからは、60歳違いと思っていましたが、実際は48歳違いの未年でした。

同じ日生まれのせいか、干支のせいか、良きにつけ悪いにつけ性格が似ており、気が合うこともあれば頑固い所も一緒で、気心が知れていると言えば聞こえは良いですが、相手の考えていることがすぐにわかるので、なかなかに遠慮のないけんかもしてきた仲でした。

大好きなおじいちゃんでした。


それなのに、この時は、全く祖父の声が、言葉が、私の心に届きませんでした。


お父さんが死んじゃう。お父さんが死んじゃう。毎日、胸が張り裂けそうな苦しさでそう思っていました。そして、おじいちゃんは、大丈夫、とも。


亡くなる時に、たぶん独りぽっちだっただろうこと、そしてその日に家族が会いに行けなかったこと、そして、俺アもう、ダメだじゃあ、という、あんなにわかりやすい弱音を吐いたのに、何も受けとめてあげられなかったこと。

これは、私の中では、一生の後悔として残るものです。





そんなおじいちゃんの法事を、私の病気のために、来年に延期するという。


弔いごとは、先にやるのは良くても、伸ばすものじゃないって言うけど…、ともぐもぐ言う私に、仕方ないでしょう、それに、死に仏さんより生き仏さん。生きていれば何とかなる‼と言う母なのでした。


『死に仏さんより生き仏さん』というのは、普段なら仏さんにご飯をあげる前に自分たちが食べる時や、いただき物や美味しいものを仏壇にお供えをしないで食べてしまおうとする時などに‘’言い訳的に‘’うちで使う言葉です。


たぶん、今、生きているこの自分たちを大切にしよう、という意味なんだと思います。


私がどうでも、ちゃんと法事をやってもらった方が良い、とも思いましたが、生き仏の私が、まずは抗がん剤を乗り越えること。そしてこの乳がんを克服することを、母は、いえ、弟とも話しあったのでしょう、優先してくれるというのです。
大切なおじいちゃんの七回忌のその一日も、私のサポートをすることを選んでくれたのです。



何がなんでもこの病気を治して、来年の父と祖父の七回忌には元気で出なければなりません。


そしてたまには、御仏壇にも掌を合わせなければなりませんね。




おじいちゃん、でも、やっぱり、あの時はごめんね。