乳がんと闘うsmileyの買わない・捨てないお片づけ生活

令和元年、消費税も上がるというのに…あるものを使わなきゃもったいない‼ 乳がんと闘うスマイリーが、病気を機に、買わない・捨てないをポリシーに使いきる暮らしで体と心のデトックスをめざす、お片づけブログ☺ 

ポート埋め込み~緊急事態発生☀

こんにちは☀


3月末に見つかった乳がんの手術が終わり、今は、抗がん剤治療の段階に入っているスマイリーです☺



1回目の投与は、6月12日でした。

抗がん剤は、投与が重複してくるにつれて、副作用や体の負担も大きくなるので、逆に最初のうちは大丈夫だろうと考えていた所、初回にしては副作用が厳しく感じられ、また、免疫が下がって高熱が出るなど、思ったより大変な治療の始まりとなってしまいました。

やはり、抗がん剤はあなどってはいけませんね。


その後も3週間毎のクールで計8回の投与の予定でしたが、2回目の朝、血液検査のための針がなかなか入らず、看護師さんが代わってようやく採血できたという結果に、1回目の時、抗がん剤が途中で入らなくなり針の刺し直しに苦労したことなども併せてよみがえって来てしまいました。


もともと血管が細く、とりにくい体質なため、子宮がんの抗がん剤の時も少しでも楽に点滴や採血ができるようにと静脈に繋がるポートを入れていたスマイリーです。そのポートは、2年前位に外して抜いてしまいました。
今回は、外来化学療法センターで相談した時に、まあ、一度やってから考えましょう!と言われそのまま抗がん剤治療を始めてしまいましたが、やってみると案の定で、やっぱりポートを入れておけば良かった、というのが正直な気持ちでした。


そこで主治医とも話し合い、2回目の投与を延期して、次の月曜に入院して、ポートの埋め込み手術をすることにしました。



そして。


月曜に入院して午後にはポートの埋め込み手術、翌日退院、次の日には抗がん剤2回目の投与、というスケジュールだったのですが、タイトルのように‘’緊急事態発生‘’のために入院がのび、この三連休中も病院で過ごし、一昨日、ようやく退院してまいりました。

一泊入院の予定が、9日間の入院になったことになります。

いやはや、今回は、結構、すごく、参りました。



そもそもポートの埋め込み手術は、そんなに大きな手術ではないので局所麻酔ですし、時間的にも、30分か、早ければ15分程度で終わりますよと言われていました。
それが、始まってみると難航し、どうしてもポートが入らないのです。



右鎖骨下は、以前にもポートを埋めてさらに抜去した場所でもあり、血管が弱くなっていたのかも知れませんが、お医者さんの必死の努力にも関わらずなかなかうまく行かず、途中から左鎖骨下へ変更となったのでした。


お医者様としては、同じ所に入れるリスクもあると知りつつ、どうせなら傷が増えないようにしてあげたい、との思いがあったようです。

私の方では、前回もうまく入っている場所であることと、左側は乳がんの手術で胸からわきに傷ができているので、何となく右の方が良いかなという気持ちがあったことも確かです。


しかし、これが、一向に入らないのです。


今回は、局所麻酔の手術だったので、意識がばっちりある中で、先生は「まだ始まらないからね~」「ちょっとチクっとするよ」などと、要所要所で声をかけてくれながら手術は進みました。


それが、途中から、う~ん、入らないなあ…とか、針が曲がっちゃった…などの独り言ともつかないような呟きに代わり、麻酔を何度も足しては、新しいポートを試す様子を私は冷や汗をかきながら感じていました。


やっぱり、お昼寝しないで、手術中に眠っておけば良かった‼


そんな中、手術野のみ開けたシートにくるまり、顔にもシートが被さりながらも、「傷が増えないように」「同じ所に入れてあげたいんだよね~」という執刀医の声に、思わず、シートの下から、「こだわらないです!」と言ってしまったスマイリーです。

それまで、手術中の先生を邪魔しないようにずっと我慢していたのですが、この時はつい、声を出してしまったのでした。


しかし、これをきっかけに手術方針が変更され、ポートは左側に埋めることになりました。変更後も、すんなり入った訳ではありませんでしたが、先生のご努力で、何とか左鎖骨下に収まりました。

これで、抗がん剤も安心して打てるというものです。

いや、このポートがなかなか入らなかったということ自体が、抗がん剤のダメージによるものではないかとも考えているスマイリーです。
抗がん剤で血管がしぼむ前に、やはり、体調の良いうちに入れておけば良かったのでしょう。



病室に戻ると、なんと手術のために部屋を出てから二時間が経過していました。
経緯を聞いているのか、看護師さんたちも、大変でしたね~と、微妙な表情です。


しかし、本当の‘’大変‘’は、このあとでした。


夕食前から、何となく気分が優れず、部屋の人がおしゃべりしている会話に混じりたいという気持ちにもならず横になりながら、そうだよ、ポート埋め込みとは言っても一応手術してきたんだもの、少し休んだ方が良いよ、と自分に言い聞かせつつ静かにしていたのですが、そうすると、ポートを入れた辺りを中心に押さえつけられるような感じがあり、息を吸うのもそろそろとして、吐くときは口をすぼめてふーっと出していました。

夕食も完食はしましたが、なかなかはかばかしくなかったのを覚えています。


そんな中、主治医の夕方の回診が始まりました。

先生は、私の顔を見ると、大丈夫~?大変だったね~やっぱり左になったね~と声をかけてくれたのですが、去り際に、「息が苦しいとか、そういうことがあったら教えてね~」と軽く言いおいて、去って行きました。
乳腺科の先生の回診は、立ち止まらず、常にスピーディに終わるというのも、この大学病院では有名な話です。

その言葉に頷き先生を見送りながらも、あれ?今のこの状態って、もしかして、息が苦しいとかそういうヤツ⁉と、ふと思いました。

確かに、あまりうまく息を吸えていないのです。

でも、それはさっきからずっと続いていることだし、ポートを入れたからなってるんじゃないの⁉
先生も行っちゃったし、明日まで様子見て、それでも苦しかったら言ってみる?などと自問自答をしている所へ、夜勤の看護師さんが回ってきました。 

一人ひとりに夜の担当ですとあいさつしながら、夕食の食事量を聞いたり、検温したり、バイタルチェックをしていくのです。


「さっき先生が」考えるより先に、声が出ていました。

「息が苦しかったら言ってね、って仰ってたんですけど」「苦しいような気がするんですけど」。


それを聞いた直後からの看護師さんの動きは、正にプロフェッショナルのそれでした。



一瞬、看護師さんの動きが止まりました。

かと思うと、私のベッドに突進し、すぐに脈をとり、血圧を計り、指には血中酸素濃度を計る器械をはめられました。

それが95しかないというのがわかった頃には、私の回りのカーテンは既に閉められ、「今、先生を呼んでいますからね」とベッドサイドでの真剣な表情に、「いや、先生に来ていただく程では…ただ、ちょっと息が吸いづらいだけで…」

恐縮し、何だか大ごとになっちゃった、と思う私の気持ちをよそに、「先生は来ましたか?」「いえ、まだです」などと周囲が慌ただしくなったかと思うと、「レントゲンを撮りますので、階下(した)に降りてもらいますね~」と、車椅子が迎えに来る事態に、「歩けます」と言ってみるも「いえ、ダメです」とそれに乗せられ、あっという間に入院病棟から外来の検査棟に運ばれたのでした。


夜の病院は、照明こそ点いていますが、昼のあの大量の人でごった返していたのが嘘のように静まり返っており、人がいないのを幸い、看護師さんはコーナーでは片輪が浮くほどのすごいスピードで車椅子を押して、エックス線室にたどり着きました。
指にはめられた器械の数値を見ると、SPo2は92とか93を示していました。何が起きているかはわからないながらも、その数値は、確かにここに連れてこられる根拠としては十分な数字でした。



ですが、本当の‘’地獄‘’は、ここからだったのです。



検査棟は真っ暗でしたが、使用中の赤いランプのついたエックス線室にはもう、写真の技師さんも主治医もいて、胸の写真を一枚撮ると、普段は患者は入れない隣室で、写したばかりのレントゲン写真を見せてくれました。

他の人に場を外すよう言いながら先生が説明してくれたことによると、ポートの埋め込み手術の際に、針が引っかかり、肺に穴が空いたため、肺の中の空気が外にもれている。もれた空気は体の中で行き場がないため、その容積分だけ肺を圧迫して、肺が縮んでいる。

そう言われてゆび指された所を見ると、肺の下の方が丸く引っ込んでいるのが写っています。それは本当にくっきりと、きれいにまあるく引っ込んでいました。


手術の説明の時、こういうこともあるって話したけど、覚えてる⁉と聞かれましたが、全く記憶にありません。私は左右に首をふりました。

と、言うより、手術や治療の際に、万が一の可能性として語られる話や、最悪の場合を想定してされる話などは、ほとんど自分の身に起こるとは思っていなかったスマイリーです。

主治医はそれでも、ちゃんと説明していたこと、同意も得ていることを確認しておきたかったようです。インフォームド・コンセントというやつです。私は説明を聞いたし、それに、同意したのです。


そして、その上で、これからその空気を抜くための処置をしますから、何日かかってもちゃんと治してあげるからね、と言われ、私はそのまま、レントゲン室にある機材の下のベッドに寝かされました。


ドレーンという言葉は後で知ったのですが、とにかく空気を抜くための管を入れるということ、そしてそれが待ったなしで今、行われるということを私は理解しました。



既に手術のための緊急チームが集められ、「⚪⚪君を今、呼んでいます」「⚪⚪先生も今、戻ってくるそうです」などの報告が飛び交うなか、それを待たずに何かが始まる気配に、私は「痛いんですか?」と聞きました。主治医の先生は否定せず、「管を入れる時にね」「ぐーん、って来るからね」との言葉に多少は覚悟したつもりだったのですが、実際に管が入ってきたとおぼしき瞬間、私は大声で叫んでいました。

正直に言って、今までしてきた手術の中で、一番、本当に、痛かったです。

しかも、管が入りきるまでには少し時間があり、呼吸法でどうにかできるような一瞬の痛みではなく、私はかなり長いこと、そして何回も、叫んでしまいました。


「ごめんねごめんね~」「ちょっと我慢だよ~」「あ~、痛いねいたいね~」「もうちょっとだからね~」「はい終わる、もう終わる、もうちょっともうちょっと~」「はい終わった、もう終わった、ほんとに終わったよ~」


今回ばかりは、涙目のスマイリーでした。


体にささっているドレーンは反対側の先っぽが吸引器に繋がれており、その器械と一緒にまた出迎えの看護師さんの車椅子に乗せられましたが、今度は何故車椅子が来たのか、よくわかるスマイリーでした。

車椅子はそろりそろりと、来たときの倍の時間をかけて病棟に戻りました。


元の病室に戻ると、既にそこに私のベッドはなく、個室に移されていました。

大部屋で一緒だった方は、皆さん次の日が手術の方ばかりなのを慮ってか、先生はみんなに向かって、‘’大丈夫ですよ~‘’と言っていましたが、一番簡単な手術で、一泊で帰る筈の私がいきなり処置に連れていかれ、お部屋にも戻らないという事態は、やはり何らかの不安を与えたのではないかと思います。

ICU とまでは言わなくても、急変した患者が個室にかわることは、やはりよく知られていることでした。


そうです、覚えています。

子宮がんの手術が難航した後、やはり私は個室に入れられていました。後で聞くと、先の胆のうの手術で癒着した部分をはがすのに、ものすごく時間がかかったとのことでした。

あの時も、夜中に熱が出たり吐いたり、大変だったっけ…でも、こんなに痛くはなかったと思うけど…。


個室に入れてはもらったものの、とにかく、体を動かそうと力を入れるだけで胸全体が痛くていたくて、ずれることも振り向くこともできず、あまりに痛みを訴えるので、入れたばかりのポートが使えるからと点滴の痛み止めを用意してくれているとのことでしたが、私の中の何かがそれを拒否しました。

「今日はもう、刺されたくない」

どうしてそんな表現になったのか不思議でしたが、口に出してみると、それが今の一番の気持ちなのでした。

そう言う私の言葉に、当直の看護師さんが頷いて出ていき、戻ってくると座薬を入れてくれました。
それは先日まで、抗がん剤で高熱が出た時にもさんざんお世話になった、ボルタレンでした。


どのくらい経ったのでしょうか。私はそのボルタレンが全然効いていないことに、気づいてしまいました。その日はポート埋め込みのために追加しながら使っていた局所麻酔が極量になったことを、ぼんやりと思い出しました。


薬も効かず、と言って点滴の針を刺すのもどうしてもイヤで、痛みもどうにもできず、とにかく動くと痛いのでベッドの上で横座りしたまま、何時間かを過ごしました。

文字通り、にっちもさっちもいかない、身動きがとれないという状態でした。


…………。


もう今日は眠るのは無理かもと思いながらも、追加の痛み止めをもらって飲み、せめて横になりたいと体を寝かせてもらったのが真夜中過ぎの1時半頃だったでしょうか。
腕の位置を変えただけで激痛が走るので手さえも動かせない中、気が紛れるかもと、個室なのを幸い、テレビをつけてもらいました。この日はウィンブルドンで女子テニスの後、錦織君の試合もあるというので音を消して見ていました。

1時間、2時間…。

女子の試合が何時に終わったのかわからないまま、錦織君のゲームも見ることなく、私はいつのまにか眠りに落ちていました。



一晩寝れば、とはよく言いますし、実際期待してもいたのですが、次の日の朝、決してそんなことはないということを私は知りました。
目覚めてからもあまりの痛みにまたうなり声を出している私に、看護師さんが入れ替わり立ち替わりして薬をくれたり姿勢を直してくれたり、先生を呼んでくれたりしました。


先生の説明によると、肺の空気を抜くためのドレーンは肋骨の間を通っており、‘’肋間神経痛‘’というと痛みの代表格と認識されるように、そもそもドレーンの入っている位置が痛い所なのだそうです。


その説明で納得したから、という訳でもないとは思いますが、一泊で退院してくると思っている家族に帰れないことを簡単にメールできるくらいに痛み止めも効いてきて、午後にはうなり声を上げることもなくなりました。

そして、3日目には自分で起き上がることができるようになり、連休前にはようやくドレーンが抜けたのでした。



今回は、一番痛かった時に痛み止めが効かず、痛みの感覚が固着してしまったことから、これまでは、常に痛みが出る前に痛み止めを飲み続けて来ました。ですが、退院して2日、今日も朝のロキソニンは飲みましたが、日中は薬要らずで過ごしました。今晩も飲まないで寝てみて、大丈夫なら明日は朝も外してみようかと思っています。


退院した次の日の投与を提案されていた抗がん剤も1週間伸ばしてもらい、来週の水曜から再開する予定です。
ちょうど抗がん剤の1クール分、3週間遅れの再開となります。

ずいぶん遠回りをしてしまいましたが、今回のポート手術といい、その後の休養期間といい、自分には必要な時間だったのだろうと思います。


というのも、緊急事態で個室に入ったのを機に、その後の入院期間も部屋こそかわりましたが個室を用意してもらったことで、自分なりにまた考える時間を持ち、いくつかの気づきを得ることができたからです。



2度目のがんということで、今回私は、できる限り治療を急いできました。

今の段階で一番早く入れられる日の手術。
手術後、一番早く始められる日からの抗がん剤


そんな中、何かが空回りしているような、何かよくわからない不安があり、食べるものひとつをとっても、自分なりの方針が立たずにいました。いえ、方針を立てても、それが本当に良いのか、心から納得することができずにいたのです。

糖分はがんの餌になるという情報。
お肉を食べると、血が汚れるという情報。

できる範囲で、外すように心がけては来ましたが、一方で、自分の顔が、‘’がんに負けた人の顔‘’に近づいてきているような気がして、鏡の中の自分にゾッとしたこともあるのです。

‘’がんに負けた人の顔‘’とは、自分なりの解釈ですが、たぶん、悪液質[おえき- しつ]と言われる、癌に栄養をとられて本体の方が栄養不足状態になり、げっそりとして顔色の悪い、痩せたというだけにとどまらない独特な顔貌のことなのですが、そこまで痩せた訳でもないのに、時にその面影を、自分の顔に見ることがあったのです。


それは、何を食べても体に悪いような気がして、何も食べられなくなっている時や、抗がん剤の副作用で食べようにも食べられない時の自分の姿でした。


今回のポート手術後の入院期間の最後の3日間は、今まで普通に食べていたものを、普通に食べることができるようになった3日間でした。

ちょっとしたおやつ。甘味のある飲み物。お肉。牛乳。病院のLAWSONのからあげクン。大好きな麺類。


ある種の情報と思い込み、そしてたぶん一番には恐怖心から、このようなものを食べない、食べたくない、食べられない自分がいたのですが、独りの時間は、その思い込みと恐怖に向き合うチャンスとなりました。


今の自分に必要なのは、抗がん剤をのりきる栄養と体力です。


今まで、‘’がんだから、こうしなきゃ‘’、‘’がんだから、これをしてはいけない‘’と、頭での思い込みについて行こうとしていたのが、体の声を聴く、ということが少しできるようになってきたと感じます。


また、がんだとはいっても、毎日の生活が続いているという自覚が出てきました。
乳がんの診断以来、やはりどこか違う日常にシフトしてしまっていたのかもしれません。


ガンでも、ガンでなくても。
普段の暮らしは続いていくのです。


そんな当たり前のことに気づけた、‘’ポート休み‘’の1週間でした。



今日は弟の誕生日です。

4月の自分の誕生日には、それこそ‘’砂糖の入ったものは毒!‘’ぐらいな感じで、ケーキを食べたいとも思いませんでした。
7月頭の母の誕生日は、副作用で私の免疫が下がっていて、それどころではありませんでした。


お誕生日とクリスマスぐらいにしかケーキを食べない我が家では、今日は上半期最後のチャンスです。

果たして私は、ケーキを食べることができるのでしょうか。


後で、ふにやさんへ行って来ます。 



そして、痛み止めを飲まないと、やはりまだドレーンを入れた所は痛いようです。


無理せず、お薬を再開しようと思います。